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2013年8月

「青い花」辺見庸   ♬花は花は花は咲く~♬の気持ち悪さ

 舞台は大震災と戦災に荒れている日本。主人公は、そんな中、線路の上をひたすら歩いているらしい。といっても、何かから逃げているわけでもなく、あちこちに死体が転がっているが、線路の付近はまあまあ片付けられている。

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 その中を、「ポラノン」とかいう多幸剤を求めてさまよっているのだ。まあ、これは、たぶん世の中にあふれる、気休め的な自称の象徴と思う。まあ、テレビだとかゲームだとかそんなものかな。そういう即効的な欲望充足の道具を探している。

 ホイサッサとか、適当な(いいかげんな)合いの手があちこちに入る。まあ、平成の「ドグラマグラ」ってとこか。全体のトーンも、狂人が書いたようなそんな雰囲気も漂う。小説中に、精神病院の話が出てきて、患者と先生とで、演劇をやるとか(病院祭りか何かか!?)いう場面もあってますます「ドグラマグラ」だ。

 ラスト近くになって強力な現世(というより今そのもの)批判が出てくる。皮肉が効きすぎているが、このあたりのご登場、背景なんかが素晴らしい。

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諏訪6市町村の読書環境 図書館の本

   諏訪6市町村の図書館は、それぞれの蔵書をネットワークで融通しあっています。なので、それぞれの図書館は、見かけ上の蔵書数が実際の蔵書数より多くなるということになっています。これは」利用者にとってとてもいいことなんですが、図書購入というのは結構偏りを持ってしまうことも事実で、それぞれの図書館で重複して同じ本を買うということもおきてきます。
 今回、久しぶりに名古屋の大きな本屋に行き、気になる本、読んでみたい本をチェックしてきました。それらが6市町村の図書館で、借りられるかどうか調べてみました。もちろん私の好みですから、偏りは承知の上で・・・。

社会関係   (所蔵が33%)

チェックして、所蔵があったもの
「孤立無業」 「トロツキー」 「メディアの仕組み」 「反動世代」 

「境界を生きる」 「編集者という病い」 「混浴と日本史」

チェックしたが所蔵のなかったもの 
「非原発」 「3.11とメディア」 「のめりこませる技術」 「歌舞伎町」 

「ディープデモクラシー」 「AV女優の社会学」 「未完の国」 「裏社会の日本史」 

「ほろびゆく言語を話す最後の人々」 「サンカ社会の深層を探る」 

「自分の頭で考えよう」 「日本が世界一貧しい国」 「われわれのオダマコト」 

「未来の選択」

 
 
世界文学関係  (所蔵が52%)

チェックして所蔵があったもの
「菜食主義者」 「パウリーナの思い出」 「煙の樹」 「ブエノスアイレス食堂」

「野生の探偵たち」 「遅い男」 「無慈悲な昼食」 「紙の民」 

「アンデスのリトゥーマ」 「冬の眠り」 「双眼鏡からの眺め」

 
チェックしたが所蔵のなかったもの

 
「インフェルノ」 「鰐の黄色い目」 「短歌行」 「エドワーディアンズ」 

「境界なき土地」 「無分別」 「チェコの伝説と歴史」 「逆さの十字架」 

「マラーノの武勲」 「ただ影だけ」

という結果でした。日本文学は、まあどこもそこそこそろってますので、調べませんでした。社会関係が弱いんですね。ただ、世界文学はがんばってそろえています。これだけあれば立派なほうです。特に富士見図書館ががんばってるんですね。その辺は評価できます。


 蔵書数が多い少ない・・・は、評価の対象?という人がいるかもしれませんが、私は大事なところだと思います。全国的に有名な小布施図書館なども、施設やイベントはすごいですが、蔵書は貧弱でした。これはぱっと見ればわかります。6市町村でも、ある程度、特徴的に収集は行われているようで、たとえば昔の本だったら諏訪、マニアックなところは下諏訪、新刊の世界文学なら富士見・・・といったようなすみわけもまあまあ出来ています。諏訪は読書好きにとっては、天国かもしれません。でも、都市との格差ってのもしっかりあるからなぁ・・・。かなり役割分担して蔵書構成するといいとおもんだけどね~~。

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景観を守るということ

先日、久しぶりに学校を卒業して、最初に入った会社で同僚だった友人が、たずねてきました。まあ、彼も農業に携わっており(といっても私は自家用、彼は生産農家だけれど)、そういう話に自然となりました。

 そのなかで、今、首都圏近郊で畑作を中心に営農しているのだけれど、長野県のほうにも、第2農場として、田んぼを借り、米の自給(生産者と消費者が一体になった農場を営んでいる)を目指したいとの話になった。試験的に今年は、辰野町の山奥のどん詰まりの田んぼを何枚か借りて、稲作をはじめたんですね。まあ、そういう取り組みのなかで、やはり、水利の問題が出てきて、湧き水を利用しているためになかなか水が回ってこないらしいのです。

 まあ、水路の補修もままならないような山奥でもあるのだけれど、その田んぼも含めて、景観はすばらしいわけです。ただ、今はかろうじて、水も流れ、田んぼも歯抜けではあるけれど、稲穂が頭をたれるような風景も見られるんですね。もちろんそういう風景はある種の都会人の郷愁を誘うわけでもあるのです。

 しかし、その田んぼを耕している人の年齢を聞いてみると、70代から80代、60代だと若手といわれるわけですね。その年代の人たちがかろうじてがんばっている。その人たちがいなくなれば、郷愁の景観も、あっという間に荒れ野に戻ってしまうわけです。そうなんですね、田んぼがあって水路に水が流れているというごくごく普通の田舎の風景も、みんなが耕作をしているから、その耕作のために、一年を通して、水が流れるように、山の中の水路から田んぼの中の水路まで、手間隙かけて補修をしているから、守られてきたのですね。そこを抜きに、「田舎の景色はすばらしい」などという言葉を、発することは出来ないわけで、田舎暮らしの本質もその辺にあるわけです。

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 たぶん、夏休みに、富士見あたりにきて、「涼しいね」なんていっている都会の方には、その辺はわからないわけで、そこらへんが、今後の富士見の景観を守っていくためには、カギになるのだろうなと、ふと思ったわけです。
今日はそんなお話でした。

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大澤真幸さんのおはなし 洗馬の緑陰講座

 毎年、夏の終わりに塩尻の洗馬宿にある萬福寺で、「緑陰講座」と銘打って、著名な方のお話をうかがう会があります。今までも、竹田青嗣、見田宗介など何回か聞きに来ていますが、ここ何回かは、社会学者の大澤真幸さんのお話が続いています。大沢さんが松本の出身のこともあるのでしょう。まあ、最近は毎年行くのも、・・・という感じになっていましたが、今年は日程があったので、出かけてみました。

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  場所は、普段は、お葬式や法事に使っているような講堂で、なかなか立派でした。

 今日のお話は「チンパンジーから見たヒト~人間の利他性の謎に迫る~」みたいな感じで、まあ題目からみて、ドーキンスっぽいなぁと思っていたのですが、そこらが中心でありました。人間の持つ利他性というのは、種の保存(自分の遺伝子を残す)というところからは全面的に説明できず、ドーキンスの、種は遺伝子のビークル(乗り物)に過ぎないというあたりで、やっと説明できるという話。リチャード・ドーキンスというと、文章があまりにもうまいので、世俗的生物学のように取られがちですが、この利己的な遺伝子の考え方は、生物学的に認められてるのですね。

 まあ、そこら辺の話と、鏡像認知を中心にした、昨今の生物学の研究成果、ミラーニューロンのおはなし。これは、他人の行動に共感できるメカニズムだそうで、なかなか面白い話でした。

 まあ、お勉強は程ほどに、帰りにちょっと洗馬宿を散策。

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 洗馬宿は、結構重要な宿場だったらしく、中山道の板橋、追分(信濃追分)、洗馬だけにあった、荷物の量目を計る改所や、大きな本陣なんかがありました。

 ここも作りたいなぁ・・・ガイドブック(笑)

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無人駅の駅舎もいいんですよね。

 

 

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イメージ映像のような映画「ペタル・ダンス」

 なんか知らないが、女性でいっぱいでした。予告編を何回か観たので女性向なのかなとは思っていましたが、まあ、そのとおりで、一言で言えば、テレビの深夜枠で放送したら、女性の間で評判になり、金曜ゴールデン枠で放送、しかし、思ったほど視聴率が伸びなかった・・・みたいなかんじです。

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 出てくる女優も、宮崎あおい、安藤さくら、吹石一恵、とくればいずれも演技派で鳴らした面々。それにやや若い忽那汐里を加えた4人がおしゃれなファッションに身を包んで、いい絵柄で随所で決めてます。この監督、CM製作出身で前作も話題になったとか・・。その世界観にファンもいるらしいですが、私はイマイチのれなかったなぁ・・・。

 まあ、ストーリーは、自殺未遂をした(といっても、ほのめかされてるだけだけど)大学時代の(?)友人に、仲良し三人組の残りの2人が会いに行くという設定。そこに、偶然知り合った、なんだろう、フリーターっぽい女の子が絡んで、4人でワンショットという、そんなつくりです。

 このフリーターっぽい女の子(忽那汐里)との出会いのきっかけが、まあ、宮崎あおい扮する図書館司書が、仕事帰りの駅のホームで、女の子が飛び込み自殺をすると勘違い。助けようとしたときに宮崎が手を怪我をして、運転が出来なくなり、女の子に運転を頼むという流れ。そりゃあやたら不自然だけれども、そういう設定。この女の子が、前日か何かに、図書館で、宮崎に「自殺に関するの本ってどこにありますか」なんて聞いてるのが、一応伏線っぽいんだけど、あとで出てくるわけではなかったりする。つくりがあまりにも素人っぽいところが気になるわけで、どうなんでしょう・・・となるわけです。
 

 途中からは一種、ロードムービーになっていき、そこはそこで、何が起きるわけでもない。まあ、映画に何かを求めちゃいけないって言えばそのとおりなんだけど、肩透かししすぎかもしれない。
 そんなことで女優のうまさだけが救いの、そんな映画でした。ちょっと疲れたかも。

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全国の公民館報

 今、富士見コミプラのロビーにて、ふじみ町公民館報600号の発行を記念して、編集委員があちこちへ出かけた際に入手した全国の公民館報を、展示しています。中心は、今年初め当公民館報が全国コンクールで優良賞(事実上の銅メダル)をいただいた際に、一緒に受賞した公民館報の展示です。一言で600号と言いますが、まあ単純に計算しても50年です。最初の発行は昭和30年ですから、私よりもお年をめしているわけです。

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 今年(24年度)のコンクールからは、最優秀賞(金メダル)は山形県の「和合」、優秀賞(銀メダル)のものは3公民館、それと、優良賞、特別賞など6館の公民館報を展示しました。

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 また、長野県内の公民館報の展示のコーナーに、3回連続最優秀賞に輝いた飯綱町の「いいづな」、小川村の「おがわ」を特別展示しました。

 公民館報というと、非常に地味な存在ですが、当ブログ管理人が編集委員をしてますので、今回宣伝させていただきます。9月2日までの展示ですので、お見逃しなく。特に「いいづな」は、非常に深いテーマで追っていますし、視点がとても鋭く、なんの紙面を作るのにも参考になると思います。

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「オン・ザ・ロード」の衝撃  ジャック・ケルアック

 この小説が書かれたのは、1950年代。たぶん衝撃的という点では、今からは想像できないような、そんな大きな波動を、アメリカ・・・世界に投げかけたと思う。

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 若者は旅に出る。そして、それは行き当たりばったりで、途中で女の子はかまい放題、酒もあびるほど飲み、町に繰り出せば、何日も帰ってこない。そこらでごろごろ寝て、車だって盗んじゃう。お金持ちに預かって陸送中のキャデラックは、持ち主に渡す頃にはボロボロのポンコツに・・・どんな車だかわからないほど、原型を保ってない。ドラッグだって、怖くない。こんな青春を、一緒に過ごす仲間たちは、誰が見てもどうしようもないやつらばかりで、でたらめに生きてるだけ。先のことなんて誰も考えていない。
 挙句の果てに、行き着いたメキシコ。憧れの土地。でも、そこでは、ぼったくられ、ふんだくられ、どこまでも続く、やるせないこの社会、それでも生きていかなければならない。アメリカという病理を、こういう形で、表現しながら、彼らはどこまで、旅するのだろうか。自由はどこまで手に入るのか・・・。

 本も読み応えあったけど、コッポラがずっと映画化を目論んでいたんだよね。製作総指揮という形で、既に作品は出来上がり、今月末から日本でも公開になるらしい。予告編見たけれど、なかなかいい感じ。

 例の「巻物」状の原稿をタイプライターで打っている場面もあったりして、例によって公開劇場少ないけれど(これって、まあ、いい映画の証明みたいなもんだ)、見に行かなきゃね。

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梅干とラッキョ

 お百姓をやっていると、ある作物が出来すぎてしまったり、加工用の作物や品種を作ってみたりするので、農産加工というのを結構やります。まあ、最初の頃に比べたら(20年ほど前かな)、肩に力が入ってないのですが・・・・(なんせ、小麦やライ麦を作って、自家製の石窯でパンを焼いてましたから・・・)。

 それでも、味噌や醤油、みりんや酢なども時々作ったり、気が向くと、その他のものに挑戦したりもするのです。今年は2年ぶりに梅干をやったのと、ず~~っと植えっぱなしだったラッキョを掘って、ラッキョの酢漬けを作ってみました。

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 梅干は、まあ土用干しです。土用はとっくに過ぎてしまっていますが、高原ですので、今頃になっちゃいます。今年は小梅と、大きめのもの(ほんのちょっとしか入手できなかったので、ちょっとです)の2種類を漬けました。この辺はシソがまだだったりするので、今年は白梅漬けです。こうやって、1~2日干して、また梅酢につけて、1~2日干して、出来上がるのですが、まあ、ちょっとだとそんなでもないですが、いつもは何キロも着けるので、それなりの・・・というか結構な手間です。

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 そして、ラッキョは初めて手がけました。これ、農協なんかで売っている、種ラッキョ1袋(20個くらいかな)から何年もかけてここまで増やしたものです。初めてでしたが、土を落として、洗って、根をとって、薄皮をむいてと、その手間たるや並大抵ではありません。小さいしね。

 まあ、以前に、農作物や加工品を、首都圏の消費者に、何人かのグループで売っていた事が有り、その中のメンバーが、梅干をちょっと安い値段で売ってたことがあります。「仕事としてあわないなぁ・・・」という感想よりも、「絶対売るもんか・・・自分で食うのだ」と強く思ったことがあります。

 梅干とラッキョ・・・強いてもうひとつ上げれば、銀杏(あの“うん国際”(笑)交流をしながら、キレイに洗うあれです)。この3つは売るなんてもってのほか。あげるにしても、おすそわけ程度をほんとに親しい人に・・・という感じですね。

 そんなことを強く思ったりしました。でも、梅干もラッキョも銀杏も、ウマイですっ!!

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自然ってすごい!! 同時にネットってすごい!!

 今日は笑えるような話をひとつ。

 私のところでは、お風呂を薪で沸かしているので、昨日も、薪(といっても山に落ちているカラマツの枝とかそういうのなんですが)を、小さくしながら、焚付けようと、火吹き竹を使ったんですが、なんだか詰まっている。火吹き竹というのは、口をあてるところは、丸く節をえぐってありますが、空気がでる先っぽは、「絞る」といって、小さな穴しか空いていません。そこに緑色のものがなんだか詰まっている。

 どうも、薪の中にある、檜の葉のようです。それを絞りからほじりだしていると、奥の方に虫が詰まっている。それもキリギリスばっかり。ざっと2~30匹はいたでしょうか?ほじったので、すっかり絞りが大きくなってしまいました。

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 こんなかんじです。翌朝撮影したので、キリギリスは多分何かに食べられてしまっています。カナチョロが物陰から出たり入ってりしていたので、多分それでしょう。

 で、火吹き竹は細いし、ネズミではないだろう。鳥だって入れない。ではなんだろう?と思い、ネットで、「火吹き竹 キリギリス」で検索してみた。そしたら、一発で出てきたのだねえ。犯人が。クロアナバチというハチだそうで、キリギリスを穴状の場所に詰め込んで、そこに卵を産むらしいのです。生まれた幼虫が、周りのキリギリスの干した?ものを食べて育つんでしょうね。

 検索されて出てきたのは、ブログなんですが、やはり火吹き竹に、キリギリスが詰まっていたようです。

  いや~~、自然ってすごいって感じたのもありますが、なにより、ネットってすごいですよね。こんな検索条件で、目当てのものが、バッチリ出てくる訳で、すごいです。

 そんな感心してしまった出来事でした。でも、どうなんだろう。こんなに簡単に調べることができるっていうのは・・・。

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「嘆きのピエタ」 母性という共同幻想

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 ショッキングな韓国映画です。なんといっても、主役の男優の存在感は、ものすごいです。借金取りの役なのですが、返せない相手を、障がい者にしてまで、取り立てていきます。無表情のうちに、相手の手足をつぶしたり、高所から突き落としたりする、その仕事振りも冷酷に描かれます。そうやって、経済成長で、ゆがんでしまっている韓国を生き抜いていきます。

 そこにです、孤児風に描かれているそこに、「母」が現れます。唐突にです。そして、この冷酷な“悪魔のようなあいつ”が、母性という幻想に、思いっきりやられます。なんていうか、とことん無表情だったこの男の口元やまなざしに、やさしさのようなものをほのかに宿らせ、それを演技力で、こなしていく男優が、すばらしいです。そこが一番の観どころですね。

 そして、母性というのが、一種の共同幻想であることが、次第に暴露されていきます。ほんとにそうなんだよね。この母親が実は、復讐のために現れてきたことが、終盤明らかになるのですが、この男はまんまと、この母親の術中にはまるのです。そして、愛に飢えた男は、次第に理性を失い、幻想に振り回され、自分を失っていきます。

 いやいや、なかなかですね。この監督さん、有名らしいのですが、さすがです。欧米のキリスト教の絡みから、この一種の贖罪物語を生み出してしまうんだから。あっという間の2時間でした。面白いというのとは一味違った、重た~~いサスペンス仕立てになっております。

 途中、この偽りの母親が誘拐されるような狂言を仕掛けるのですが、そのときに今まで虐げてきた、「客」のところを巡礼のように回るのです。その巡礼をしていく中で、自分がその人たちに何をしてきたかということを思い知ります。そして凄惨な、そしてある意味静謐な、ラストの場面につながるのです。なんとも深く深く考えさせる、しごく上等な映画でありました。
 まあ、こりゃあちこちで上映できないよなぁ。名古屋千種の怪しいマニアックな単館(名古屋シネマティーク)で観ましたよ。

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質問読書会って・・・ 面白かったです

 図書館カテゴリー、久しぶりかも。勝手に図書館だより=「としょかんだいすき」を出していることもあり、本番の前の、プレ読書会に「さくら」として呼ばれていってきました。場所は富士見図書館です。

 質問読書会ってのは、初めて。わざと予備知識も入れずに・・・どんなものなのか・・・楽しみでした。

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 まずはアイスブレイク。モニョモニョのボールのようなもので遊びます。そんでもって、書き込んでいく用紙を渡され、「課題図書を読み終わった時に、どうなっていたいか」などを書き込んでいきます。ここに質問がいろいろ書いてあるのと、自分が参加者みんなに質問していくのとで、質問読書会というわけですね。

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 この日の課題図書は「かみなりちゃんとだるまちゃん」という絵本でした。たまたま3冊あったからなんですけど・・・。

 こうやって、質問を考えながら、本を読むことで、いつもより問題意識をはっきりさせて読むことができるとか。その通りです。ほんとにたまたま選ばれたこの本が、印象深く、残ることになりました。笑っちゃいますが。

 また、難しい本、厚い本でも同じように出来るとのこと。まあ、本って、全部が全部、大事であったり、自分にとって有意義というわけでもなくて、たいがい、ある一部分だったりするわけけで、まあ、、そのとおりかと思います。問題意識に引っかかるところだけ、読めばいいんですから。

 なかなか、楽しく、貴重な体験になりました。

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そもそもデリヘルって必要? 問題映画 「暗闇から手をのばせ」

 ハイ、問題作です。いつもと違って松本シネマセレクト上映会場も満員でした。題材はキワ物です。障がい者に対しての性的サービスを提供する業者を描いています。映画では、全国にひとつみたいな描き方ですが、実際には結構あるみたいです。上映会場、一目で福祉関係者かなって・・・いう方たちばかりでした。

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 物語はしょっぱなから、差別の二重構造をうき上がらせながら進みます。ひとつはまあ、障がい者に対する差別。そしてもうひとつは、性的サービスの提供者=デリヘル嬢に対する差別です。社会から差別されるもの同士が、片一方はサービスを受け、もう一方はサービスを提供する。間を取り持っているのは、お金です。

 途中一ヶ所ですが、やりきれない描写が出てきます。お客である障害者から、なにげに「友達になってくれ」といわれ、気が向いたときに、友達として遊びにいったら、その障害者は、障害(難病)が元で亡くなっている。その家にいた、お客の妹に、汚らわしい・・・みたいな言い方をされ、露骨に差別されます。
 

 あ~これって最低・・・。昔の映画ですが、「生きているうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言」思い出しました。このお話、実話を基に作られてるのですが、実話では、このサービスをはじめた方は、福祉的な志向性があったようです。映画では、ビジネス・・・お金の亡者的に描かれています。津田寛治好演。

 これこれこうだという感想とか、批評とか、なかなか難しい作品ですね。でもまあ、そういうサービスは、時代のあだ花でもあるわけだし、本当に障害者にとって必要なものなのかは、議論が分かれることと思いますね。一般の社会でも、立派に議論分かれますから。

 まあ、ここで思うことは、障がい者にとって、性的サービスが必要なのか?ということより、そもそもデリヘル自体が必要なのか? つーこんでして、ちょっと問題を矮小化してるきらいもありますが、「悪所通い」なんて言葉もあるくらいだから、表社会と裏社会的な、理解の仕方もできるわけです。

 もともと、障がい者と健常者の間に、なんの差別もなければ、障がい者と健常者が普通に恋愛して・・・なんてことが可能なのだけれど、それができないんじゃないかという立場に立つと、障害者に対する性的サービスは必要という考え方が出てくるわけですね。ここややこしいですが・・・。で、一般人になぜデリヘルが必要かというと、やはりうまく恋愛などができずにいる人がいたり、まあ、中高年で、奥さんとの静的な接触がなくなってきてしまうなんてこともあるわけで、それで必要みたいなことが一応は言えるわけです。これってかなり苦しい意見ですが・・・。

 女性の立場からみれば(というかフェミニズムの立場かな)、とんでもないことかもしれないけれどもね。

 そんでもって、主役の女の子は、グラドルとのこと。ことによると、差別の三重構造といえなくもなくて、複雑な思いで、会場を後にしたのでした。でも、ホーキング青山とかいう役者さん(障害者のお笑いタレントらしい)、いい味出してました。ああいう憎めないスケベおやじ、実際にいそうですからね。

 観たい人と、観たくない人に分かれそう(笑)。

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御射里の会 臨時総会

 先日、御射里の会の臨時総会を行いました。

 というのも、ずっと活動をしてきた地域で、なかなかみんなが集まりにくくなり、活動として停滞気味になってきて、さあ、どうしようか・・・というところに至ったからです。メンバーが結構高齢ということもあり、体調が思わしくなかったり、病気になったり、そんなことも耳にするようになってきました。

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 そこで、臨時総会を開き、そのことについて、話し合いを持ちました。結果、①それぞれができることを・・・をということでやってきたものに、やや限界が出てきた ②会員で維持するのが難しくなってきた場所などは徐々に整理していく ③出来ると判断したものは、担当と期限を決めて、管理していく ④維持するためだけにかりている場所は、地主の人に話をして、ある程度の作業をやってもらう などなどの意見が出ました。これから少しずつ、そこに向けて動いていくことになりそうです。

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「1968」下  自分探し・・・いやいや時代の潮目での摩擦らしい

 はい、都合1ヶ月近く、この本に関わってしまいました。やっと読み終えた感激と、達成感に満たされているところです。で、下巻の方の表紙は・・・気合入ってますね。学生にしては、お年が行き過ぎてるような・・・たぶん東大全共闘の助手か、はたまたどこぞの労組メンバーか。甘ったれたような学生の集会の一コマから、一気に武闘派っぽい硬派な画像になったわけです。まあ、内容もそれに即しているわけで・・・。

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 上巻では、70年前後の学生運動は、「自分探し」だったんじゃないか・・・とにおわせていました。しかし、長い長い、各大学の全共闘による戦いのすえは、セクトによる、街頭での暴力の発露となっていったのですね。そうしたことの結果というか、行き着く果てに「連合赤軍事件」がおきたわけです。

 しかし、一般的には、連合赤軍事件がおきたことで、「運動」とりわけ「学生運動」というものの果てはああいうことになるというようなそんな常識のようなものが出来てしまいました。それによって、「運動」アレルギーとでも言えばいいような感覚が社会に溢れていきます。

 ここでまた、しかし、です。連合赤軍のリンチ死の発覚後の警察のやり方、マスコミをうまく利用したその「手口」もこの本の中で明らかにされています。そうなのです。「運動」アレルギーが広がることは当局の思うつぼであったわけです。そこまで書いておいて、著者は、それでも、70年安保前後の動きは、「高度経済成長に対する集団摩擦現象」であると言い切ります。まあ、ぶっちゃけて言えば、「高度経済成長なんて、なんだかいやだよ、こんなの」と駄々をこねていたというわけです。
 

 さて、このように著者は、まるで、私たちに代わって70年代の運動の動きを総括してくれました。

 そうなのです、そういう総括をきちんとしていないのが、この時代であり、一般的に「安保でがんばらなかったから、こんな時代になったんだ」といった言説を誘うものになっていたのです。そのために、総括をしてくれたわけなんですですね。そうしないと、たとえば、今回の原発事故のようなときに運動がまったく起こらないというような事態がおきかねないのです。それくらい、日本の市民運動というのは、権力によって、押さえつけられてるのであり、体制内的にコントロールされているのですね。そこに鑑みれば、今回の原発反対の動きも、なんだか哀愁をおびて見えてきます。特に、この参院選の結果を見ると・・・。

 そして、この小熊さんの問題提起に対して、私たちは何が出来るのでしょうか?
 青少年は一種の巨大なマーケットと化し、それをいかにおだてて搾取するかというところで、政治も経済もかかわってきます。それを跳ね返すような何かを見つけなければならないのでしょう。

 何かとはなんなのか?果たして本当に手に入るものなのか?それを求める長い旅路を、著者と一緒に歩まねばいけないのでしょうね、きっとね。

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ああ、また、この季節がやってきた

 毎年、この季節がやってきます。なんの季節かって? 街(富士見の中心街のことですが)に出ると、よそナンバーの車が大手をふって走っている、この季節です。

 普段、地元の車のマナーがいいとは決して思いませんが、普段走っている車とは明らかに違うんですね。

 普段ここらを走っている車は、言ってみれば、おらちの畑を走ってます状態。まあ、停止線は止まらないし、危ない間隔でも横道から出てくる。それでも、全体的に運転技術とスピードが伴わないので、なれてくれば、それなりに対処ができるのですが・・・。

 この季節の、よそナンバーは、ちょっと違う。まあ、一言で言えば「横暴」。多分都会で暮らしているとああなるのでしょうが、俺、俺、俺、俺が世界の中心だぁ ちゅうような運転なんだよね。

 今日も、街に出たんですが、バイク(スーパーカブ)のオイラを、信号が変わったとたん、後ろからあおるんだぜ。信じられるぅ。クラウンとかセルシオとか、そういうクラスの高級車。 “チッ”という舌打ちが聞こえてきそうな、そんな運転。

 もちろん誰もがそうというわけじゃないんだけど、また、ずっとこっちに暮らしている人もいるんだけど(まあ、そんな人にもこの傾向は多少はある)、やっぱねえ、都会人のおごりっていうか、そんなものを感じざる得ないんだよ。

 特にね、のんびりとした農道を、タラタラ走っている地元の軽トラ(けっとら)を、あおっているのをよく見かけるのだけど、あれは、よくないよ。「郷に入ったら郷に従え」、田舎の走りを、やってちょうだいね。来るなとは言わんで。

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 なお、多摩ナンバーがそうだということではありません。念のため。

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