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「1968」下  自分探し・・・いやいや時代の潮目での摩擦らしい

 はい、都合1ヶ月近く、この本に関わってしまいました。やっと読み終えた感激と、達成感に満たされているところです。で、下巻の方の表紙は・・・気合入ってますね。学生にしては、お年が行き過ぎてるような・・・たぶん東大全共闘の助手か、はたまたどこぞの労組メンバーか。甘ったれたような学生の集会の一コマから、一気に武闘派っぽい硬派な画像になったわけです。まあ、内容もそれに即しているわけで・・・。

1968

 上巻では、70年前後の学生運動は、「自分探し」だったんじゃないか・・・とにおわせていました。しかし、長い長い、各大学の全共闘による戦いのすえは、セクトによる、街頭での暴力の発露となっていったのですね。そうしたことの結果というか、行き着く果てに「連合赤軍事件」がおきたわけです。

 しかし、一般的には、連合赤軍事件がおきたことで、「運動」とりわけ「学生運動」というものの果てはああいうことになるというようなそんな常識のようなものが出来てしまいました。それによって、「運動」アレルギーとでも言えばいいような感覚が社会に溢れていきます。

 ここでまた、しかし、です。連合赤軍のリンチ死の発覚後の警察のやり方、マスコミをうまく利用したその「手口」もこの本の中で明らかにされています。そうなのです。「運動」アレルギーが広がることは当局の思うつぼであったわけです。そこまで書いておいて、著者は、それでも、70年安保前後の動きは、「高度経済成長に対する集団摩擦現象」であると言い切ります。まあ、ぶっちゃけて言えば、「高度経済成長なんて、なんだかいやだよ、こんなの」と駄々をこねていたというわけです。
 

 さて、このように著者は、まるで、私たちに代わって70年代の運動の動きを総括してくれました。

 そうなのです、そういう総括をきちんとしていないのが、この時代であり、一般的に「安保でがんばらなかったから、こんな時代になったんだ」といった言説を誘うものになっていたのです。そのために、総括をしてくれたわけなんですですね。そうしないと、たとえば、今回の原発事故のようなときに運動がまったく起こらないというような事態がおきかねないのです。それくらい、日本の市民運動というのは、権力によって、押さえつけられてるのであり、体制内的にコントロールされているのですね。そこに鑑みれば、今回の原発反対の動きも、なんだか哀愁をおびて見えてきます。特に、この参院選の結果を見ると・・・。

 そして、この小熊さんの問題提起に対して、私たちは何が出来るのでしょうか?
 青少年は一種の巨大なマーケットと化し、それをいかにおだてて搾取するかというところで、政治も経済もかかわってきます。それを跳ね返すような何かを見つけなければならないのでしょう。

 何かとはなんなのか?果たして本当に手に入るものなのか?それを求める長い旅路を、著者と一緒に歩まねばいけないのでしょうね、きっとね。

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コメント

En mi opiniГіn aquГ­ alguien se ha concentrado
eKn bb4arg48

投稿: eKn | 2013年9月 3日 (火) 00時31分

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