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満蒙義勇軍の話

 公民館報の取材で2回にわたって満蒙開拓について取材し、そんな中でいくつか感じたことがあります。 満州での暮らしについての聞き書きでは、その開拓村がまるで共同体のようなたたずまい感じられました。なぜなんだろうと、いろいろ調べてみました。もともと満州というのは、ロシアの半植民地のようなもので、日露戦争の戦利品として、長春~旅順間の東清鉄道南満州支線と付属地を奪取したことに始まります。

 この鉄道が南満州鉄道㈱=満鉄となり、そこにできた調査部(三菱総研や野村総研のようなシンクタンク)に日本国内のきびしい弾圧から逃れた「時の左翼的」な人たち(もちろん東大卒・京大卒などのエリート)が、就職先として集まってきていたようです。当時の満鉄は鉄道会社というより、満州国の政策にまで絡んでいたようです。そして、満州を事実上支配していた関東軍の作った経済調査会とともに、国策として協同組合的な「合作社」という運動を展開していったのです。

 その柱である思想は、中国の民衆がそのような協同組合を通して、民主主義的な体験をし、それによって自治の能力を身に付けてことができるというように、理想主義的な社会主義思想でした。のちに、関東軍憲兵隊により検挙され、徹底的に弾圧を受けるような「危険思想」であったわけで、そういう考え方で、植民地という状況ではあるにせよ、理想的な農村を作ろうと活動していました。特に北満州で活発に活動していたので、ちょうど富士見分村のあたりもそういった影響を受けていたのでしょう。

 そんな富士見分村での暮らし振りが、いろいろな回想録に書かれていました。今回もさまざまな記録集などを読みましたが、桶屋の息子だから、桶作りができるだろうと作らされ、作り方がよくわからずに適当に作って・・・なんていう話や、酪農や畜産の研修を受けに遠くの町まで出向いた話や、のんびりした暮しがしのばれる内容でした。もちろん余りにつらい話などは載せていないのだとは思いますが、不思議な感じがしました。  また、植民地に国策によって、送りこまれた人たちというのは、もともと住んでいた満州の人たちに対する直接の加害者ではなく、いわば一種の被害者であるわけです。義勇軍のお話を伺った時に、各学校にノルマのような形で割り当てが来て、それを達成するために動いた教育関係者というのが出てきました。開拓団の募集にも行政の関係者も多数かかわっていたことと思います。ある方が、「まあ、仕方ない。そうしなければ牢屋行きだからなぁ。あの頃は」と言っておられました。国が誤った選択をした時に、それを個人でどう対応していくのか・・・これがわたしたちに突きつけられた課題だと思いました。それとともに、現在の教育や行政にかかわる人たちがどう動くのか、心してもらいたいものだと、強く感じました。  

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